道元禅師は花を見るも風情する事無かれと言われて居ます。感覚感情で物事を観てはいけないと。御釈迦様は唯生きて唯死んだだけです、唯の唯です。教祖様では無く一介の修行者です。親鸞様も仏像の阿弥陀様よりかは、掛け軸の阿弥陀様の方が好い、掛け軸の阿弥陀様寄りは、名号の阿弥陀様の方が好い、名号の阿弥陀様よりは何も無い方が好いと言われて居ます。唯の唯念仏です。道元禅師も只管唯座の唯の唯座禅です。中国の黄檗宗の黄檗禅師も唯般若を尊重するが故に礼拝せよと言われて居ます。文学芸術が人を迷わす元に成る共言われて居る所です、臨済宗で大事に去れて居る祖禄で茶道の世界でも良く詠まれて居る碧巌録が、余にも文学的に文章に凝りすぎた為に本来の仏法が呆けて終った様に、感覚感情で物事を見てはいけないと言う事です。現実から物事を観ると言う事が非常に大切な事です、頭の働きに騙されない事です、是が出来ずに寝言を言って居る人が多過ぎる事は何時の世も悲しい事です、部分から全体を観るのではなく、全体から部分を観なくてはいけません、現実から物事を観る様に仕手行か無くてはいけません、机上の空論寝言を言って居る人が多過ぎます。広い世の中を狭く観て生きてはいけません、医療は現実の積み重ねです。現実から物を観る様に支無くてはいけません。※。人生に成功は無い。中国臨済宗の開祖臨済禅師が言われて居るのに、途中に在って家舎を離れず、未完成のままに行く。是は凄い言葉です。棺桶の蓋を閉めるまでは、解らない。 |