親鸞は、父母孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候わず。『歎異鈔』五章『観無量寿経』に説かれている 。この親鸞は、父母孝養のため、いわば、追善供養のため、一返も念仏申したことは、いまだかつてございません、といい切っておいでになります。念仏は法であり、大行であって、個人的人間を超えたものであります。父母孝養の問題・祖先供養の問題は、人間として素朴な尊い感情でありますが、あくまで、私的な、個人的感情の立場の問題であって、次元を異にしているのであります。混乱すべきではないから、はっきりといい切っておられるのであります。昼間に幽霊が出たのでは面白くない、人間の居ない所に幽霊は居ません。悪魔が居なくなれば仏は要らない、花は散るのが良い白が何時までも白ではない。霊魂論は感覚世界(倶舎論)、死んでも生きたいと言う執念が霊魂論を作った、霊魂は人間が作った物です。キリスト教には霊魂論は有りません、死んだら皆天国に行きます。写真は此の世に未練を残す物で人間の執念深さを表した物です、鮮やかで無いといけません。 |